☆牛の飲む水は乳となり蛇の飲む水は毒となる

 

「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」

―― 無明も無く 亦た無明の尽きることも無し 乃至 老死も無く 亦た老死の尽きることも無し ――

さて「無」の語が続きますが、ここでも前回と同様に〝乃至〟の語で教理が略されています。もっともこれは〝無明と老死〟のキーワードで、当時の大乗仏教の修行者には十二縁起の教理と理解できるのです。

パーリー仏典には十二縁起の内容が以下のように記されています。
「無明(むみょう)の縁から行(ぎょう)があり、行の縁から識(しき)があり、識の縁から名色(みょうしき)があり、名色の縁から六処(ろくしょ)があり、六処の縁から触(そく)があり、触の縁から受(じゅ)があり、受の縁から愛(あい)があり、愛の縁から取(しゅ)があり、取の縁から有(う)があり、有の縁から生(しょう)があり、生の縁から老死(ろうし)、愁悲苦憂悩が生ず。このようにこの一切の苦蘊(苦のあつまり)の集起がある(略)」           仏教要語の基礎知識 水野弘元著(春秋社)

お釈迦様が菩提樹の下で成道された時、引き続き七日間の坐禅を何度か場所を変えて修し、十二縁起を〝無明から老死、老死から無明へ……〟と順逆に考察されたと伝わっています。ここに心の作用がつぶさに解明されたことで、「苦」の原因は無明であるとあきらかになったのです。

無明とは存在の根底にある根源的な無知で真理に明るくないことですが、これがまことに厄介なのは我執による邪心がその大本ですから、知らず私たちは無明によって永遠に迷いの輪廻に浮き沈みするのです。

仏典にいう一切の苦蘊(苦のあつまり)とは私たち自身のことでした。よく見ればハッキリと自我意識を離したくない自分がいるのです。

生命(いのち)ある者は境界により、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界の六道に生死を繰り返すのですが、この輪廻転生の原動力が〝業〟とされ、十二縁起では十番目の支(項目)〝有〟であるとします。自省なく業因に突き動かされていくのが迷いの凡夫というわけです。

対照的に十二の各支を一つずつ無くして煩悩がすっかり片づいた聖者を羅漢と称えますが、自己の悟りを専らとすると解釈されます。
その点、菩薩は智慧波羅蜜によって無明を粉砕して、「苦」の解放とともに一度に煩悩の片が付くのです。尚のこと慈悲をもって苦しみと悩みの此岸の世界で私たちの呼びかけに応えてくれています。

『般若心経』は菩薩の代表である観自在が、智慧第一の羅漢、舎利子(舎利弗尊者)に般若の智慧の真理を語りかける設定で進行します。

一切の「苦」を解放した観自在菩薩が「無明も無明の尽きることも無し、乃至老死も老死の尽きることも無し」と説くのは、無明も老いることも無い、死も無くなった。のではなく〝あるがままに在る心〟への転換を意味するのです。
無明の一念を放下し終えて、十二縁起の各支も老死に関わる生死(しょうじ=迷いの輪廻)の問題にもとらわれず、自己の存在を肯定的に受け入れ、善悪、好悪、清濁等その他の対立も止揚していくのです。
更に般若の智慧は実行する力をそなえていて、このエネルギーが人生を切り拓き、ビビッドであざやかな生き方へと展開をみせます。
付言するならこの智慧は〝自己を忘れたところ〟に働きだすのです。

「牛飲水成乳 蛇飲水成毒」
――牛の飲む水は乳となり 蛇の飲む水は毒となる――

質を同じゅうする水が、異なったものとして現われる。真理は只一つ作用は萬般に異なってくる。                        『禅林句集』

同じ水が飲み手によっては牛乳となり、ある場合には毒となって現れる。真理に問題はないのに飲み手次第で変化が起きる、これを各自の境界に反映されると見るなら日常に多々あることでしょう。

仮の現われの私たちの自己は不変的存在ではなく、その依代でもないからには無明から老死の明滅も固定的実体ではないのです。しがみついている我執の手を放すと苦蘊の迷妄はほどけます。
十二縁起が明らかにした真理は、私たちの存在そのものが「苦」であるという事実でした。この事実を活きる場でポジティブに転換することが人生の大事であるのは言うまでもないことです。

因みに普遍的生命の流れと一切の現象は刹那せつなに切り替わり変化する流れです。これを「無」や「空」の状態にあると観るのです。

十二縁起の各支の解釈を短く意訳して挙げておきます。
一、無明(根本的な無知)
二、行(無明より生ずる身・語・意の三業、過去世の業とも)
三、識(認識作用の六識)
四、名色(識が認識する六境〈色・声・香・味・触・法〉)
五、六処(六つの感覚器官)
六、触(主観、客観、認識〈六根・六境・六識〉の反応)
七、受(五蘊の受と同じ苦楽等の感受作用)
八、愛(渇者が水を求めるような激しい欲求、渇愛、愛著)
九、取(愛の念から生ずる行動。無明・愛・取が煩悩とされる)
十、有(取の煩悩・執着にもとづいた業。輪廻世界の生き物)
十一、生(輪廻によって生類の中に生まれる)
十二、老死(生の後に老死が生ずる。一切の苦悩が老死によって代表される)

「あざやかに生きる」般若心経のおはなし Vol.5(2017年1月) より転載