☆「大きい」という、枠組みのない宇宙

 

“坐禅と般若心経の集い”法話 vol.2

漢文の経典のタイトルは、経典内容の大綱を端的に示したものといわれます。
『摩訶般若波羅蜜多心経』から始めましょう。

「摩訶」
――サンスクリット語のマハーの音訳で「大きい」と訳すのですが、サンスクリット語の原義の〈偉大な……〉を含んで、思慮を絶するほど大きく、多く、勝れる……ことの表現です。 大小、多少等の二元対立を裁断した「大」ともいわれます。
例えば我々の住む世界を仏教の宇宙観では、須彌山(しゅみせん)を中心に四方に四つの洲があり、その周りに九山八海があって日月(じつげつ)がめぐっているところと考えます。 この世界を一千集めて小千世界といい、小千世界が一千集まって中千世界とします。その中千世界を更に一千集めて三千大千世界(三つの千の世界からなる大千世界)と言います。

 
何ともややこしいですね。 ここに我々の太陽系に似た宇宙を千の三乗した、十億の銀河系の宇宙世界が展開されますが、この十億の須彌山世界を一人の仏が教化(きょうげ)する「一仏国土」といわれています。

十方世界それぞれに仏の世界があると想定されていますから、三千大千世界の十倍、百億の須彌山世界というとてつもないスケールの宇宙観ということになります。

こういう表現は仏の偉大な衆生済度を表そうとしたものではありますが、「地球とか宇宙」と言ってしまえば、いかに規模が大きくとも、もう枠組みと限界に縛られていませんか……。 どれほどスケールが大きい宇宙や銀河であろうと、今、坐っている私たちの鼻先の空間に他なりません。

私たちは自覚なしに宇宙を呼吸し自身も宇宙なのです。こんな発想は如何でしょう……。並外れて大きく、限りなく多く、際限なく勝れた、「摩訶」とは、仏の偉大な智慧そのもので枠組みではありません。

 
五百年に一人と云われるほどの高僧で臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は、その著書『毒語心経』で「四維(しゆい)上下等匹(とうひつ)無し、多くは錯(あや)まって廣博の會(え)を作(な)し了(おわ)る」と評されています。

これは説明だけにページを割き、力んでいる私によく似てきました。所謂説明は戯論と同じで、思慮を絶するとして、その枠組みに当てはめ、際限がないとしながら際限なく縛られていくことになるでしょう。

先賢の偉大な禅師は「この〈大の一字〉が本当に解ったら、すべて解る……」とも説かれます。

このように切り出されますと、ちょっと身構えてしまいませんか……。

vol.3へ続く

(このブログは私の『般若心経』の独断的解釈です。あらかじめお断りしておきます。)

by 「般若心経」のおはなし」 2012/7/18(水) ブログ掲載