☆生れ子の真理の智慧

 
 
“坐禅と般若心経の集い”法話 vol.3

「般若」
――サンスクリット語の「プラジュニャー」または俗語形の「パンニャ」の音写で「智慧」と訳します。摩訶という偉大な仏の智慧のことです。
――平等の中に差別を見るはたらきの〈智〉に対し、一切物事の平等なることを証する〈慧〉がパンナーである――と、『岩波仏教辞典』にあります。

 
「生まれ子の 次第次第に智慧つきて 佛に遠くなるぞ悲しき」と、道歌に詠まれますが、〈子供の成長が悲しい……〉とも受け取れそうなこの歌を、どのように理解すれば良いでしょう。

〈仏の生命(いのち)〉そのままに生まれてきた赤ちゃんも、両親の顔と声をすぐ覚え、その可愛いかわいい顔中の笑みや、目の中に入れても痛くない仕草、表情のままに、徐々に智恵がつき仏と隔たってしまう。なんと悲しいことか……というのですが、生まれ子が身につける〈知恵〉とは、望まれない知恵なのでしょうか?

生まれたままの赤ちゃんの心は何もない清浄(しょうじょう)な仏の生命〈仏の智慧〉そのものに譬えられます。ですから恣意的な、つまり自分勝手な考えは全くといってありません。
ここにきて、〈悲しい……〉という意味が何となく分かりかけてきました。

かつて無垢な生まれ子であった私たちのリアルな問題は、ほぼ100%恣意的な判断の上に成り立っていますから、仏と対極にある煩悩の凡夫です。
凡夫の恣意的な考えは妄想分別の〈分別智〉というべきもので、ここでいう仏の智慧ではありません。

 
『白隠禅師坐禅和讃』は仏の智恵を讃歎して、「三昧無礙(ざんまいむげ)の空ひろく、四智円明(しちえんみょう)の月さえん……」と詠います。
〈四智〉のうち根本智ともいわれる大円鏡智(だいえんきょうち)は、しばしば鏡に譬えられます。
小さい手鏡ほどの物でも、化粧する目元に限らず京都タワーや富士山ですら写し込みますが、そこには美醜、大小、その他の対立の、また何の恣意的分別も、後を引く想いの何物もありません。
また方向を変えれば全てが消えてその痕跡すら留めていないのです。
何もないことから生まれたままの赤ちゃんの心に譬えて説かれます。

 
この根本智は、〈無分別智〉ともいわれ、世間では〈無分別〉を思慮のたりない意味に解釈することが多いのですが、本来は断じ尽くされて余計な〈分別〉がなくなってしまった智恵です。
主客の対立を越え真理を見る智慧ですから、第一義諦の智恵と言って良いでしょう。

お釈迦様のお話し、観音様の智慧の御教えではなく、全て私たちの自分自身の話です。

vol.4へ続く

by 般若心経のおはなし 2012/7/23(月) ブログ掲載