☆経糸と横糸で織り出す、心模様 

 

 “坐禅と般若心経の集い”法話 vol.5

「心経」

『般若心経』の「心」はサンスクリット語の「フリダヤ」を漢訳して「心」の字を当てたのですが、どちらも「心臓」を意味します。ここでは心髄とか核心というような意味合いです。

「経」とは「スートラ」といい、「たて糸」を意味するサンスクリット語で、漢訳の「経」も同じく「たて糸」のことです。ですから「心経」とは「心髄の教え……」と理解して良いでしょう。

織物は「たて糸」がないと生地になりません。「たて糸」に横糸を絡めて柄を織りだしていくわけです。織物を私たちの人生と捉えてみますと、若い青から渋い色調まで、その方の生き様が綾となって現れて在るともいえましょう。
明治時代を代表する文学者で俳人の正岡子規の「心」に触れてみます。
子規は脊椎カリエスに冒されて34歳で世を去るのですが、病状は寝たきりとなり、膿だらけの躰で激痛にのたうち号泣し、死と向き合った7年でした。

子規の言葉が残されています。
「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解していた。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」 岩波文庫『病牀六尺』

それは激痛に号泣し人生への絶望の極点で、不意に溶け込んだ僥倖とも云うべき瞬間でした。のたうち絶叫する「心」が対立の沸点を超えたのです……。

鮮やかに転換した子規の目覚めです。 ビビッドな命が息づく即今を、どんな事があっても「平気で生きている……」と、子規が自らの言葉で表現する自覚の場の開けと言えましょう。

3ヶ月後に子規は最期を迎えますが、転換した心は病床で苦しみもだえながらも、最期のその瞬間まで対立を超克した全身全霊の命に満たされたことでしょう。

この子規の体験は、私たちが「苦」の問題と直面した時に、為すべき心構えを示してくれています。第1には全身全霊で現今の問題と一つとなること。それには問題と向き合って離さないことです。

心すべきは徒に他に走り回って誤魔化すと、問題の全てが逃げてしまうでしょう。 余計な知識は必要ありません。一つの問題が本当に片付けば目的は達成されるのです。
真理に向かう道は古来の賢聖が示された、「触感、思念、感情等の認識判断の起きる前!」この方向に真っ直ぐ通じています。

「心とは如何なるものと思いしに 目には見られず天地一杯」『禅林世語集』

「心」という固まった形があるのではありません。それは永遠に変化し続けて動きの止まることはないのです。

ビビッドで鮮やかに → 永遠に変化し続けて → 常住の形で存在するのでなく → 森羅万象の中に現れて → 全てに充ち満ちてある、これを「心」と示されています。

「心」の本体は分析できませんが、「心の諸相」に囚われて、分析しようとすればするほど縺れて離れていくかも知れません。

仏と目覚めた、子規の辞世の句です。「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」

vol.6へ続く

(このブログは私の独断的解釈です。あらかじめお断りしておきます)

by 般若心経のお話し 2012/9/6(木) ブログ掲載