☆目覚めれば、生身の菩薩

 

 “坐禅と般若心経の集い”法話 vol.6

「観自在菩薩」

『般若心経』の冒頭は「観自在菩薩」と始まります。原語は「アヴァロー キテーシュ ヴァラ」、観察すること自在なる者の意です。 鳩摩羅什の旧約では観世音菩薩、玄奘三蔵の新約は、観自在菩薩と表現が異なりますが違いはありません。観音様も同じです。
慈悲の面を強調したのが観世音菩薩、般若の智恵を強調して観自在菩薩とされます。

インドにおいて初期の姿の聖観音から、変化身として十一面観音、千手千眼観音と、多くの菩薩方が出現されました。
因みに十一面観音様は修羅の世界の住人を救っていただけるといわれます。修羅の世界とは嫉妬、猜疑から起こる争い、激しい怒りや情念の争いの絶えないことのたとえですから、この苦しみの現実から救いだしてくださると女性に人気があるのでしょう。

昔の偉大な禅師は観自在菩薩を「観れば自らに在る菩薩」と訓みました。気が付けば自分の内に観自在菩薩とかわらぬ心(生命)が在った……と目覚めるのです。

ある小さい禅寺の話です。当時和尚は午前3時半に起きて修行に道場に通うのですが、その日、少し帰りが遅くなると、お堂の中から魚鄰(木魚)の音が聞こえる。寺庭さん(奥さん)が朝課を始めているのです。
和尚が外から合掌して「観音様、只今帰りました」と低頭すると、お堂の中の誦経の声が、魚鄰のリズムで「ありがとうございます……アリガトウゴザイマス……」と言ってる。
ウン? 暫く耳を傾けても、確かにそう聞こえる。
不思議に思いながらお堂に入ると、寺庭さんが唱えていたのは『延命十句観音経』でした。

寺庭さんが一心に唱えるお経の本体は感謝の心です。和尚はそのままに「ありがとうございます……アリガトウゴザイマス……」と聞く。
お堂の中は本尊様を中心に感謝の心が空間に充ち満ちて時空を支配しているようだ。
この場には第七識とか第八識、またユング心理学の集合的無意識、等々の分析解釈は意味を成さないでしょう。
『延命十句観音経』は観音様に帰依し感謝するお経です。因みにこの寺の本尊は十一面観音様でした。

 

『延命十句観音経』
観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁
かんぜ-おん な-むぶつ よ-ぶつう-いん よ-ぶつう-えん
仏法僧縁  常楽我浄
ぶっぽ-そ-えん じょうらくが-じょう
朝念観世音  暮念観世音
ちょうねんかんぜ-おん ぼ-ねんかんぜ-おん
念念従心起  念念不離心
ねんねんじゅうしんき- ねんねんふ-り-しん

【意訳】
観世音菩薩様に帰依いたします。
私たちは観世音菩薩様と同じ命をいただいて、同じ世界を生きています。
それは仏法僧の三宝の教えに基づく、常、楽、我、浄の理想の世界です。
私たちは朝に夕に感謝と誓願を新たにして、観世音菩薩様を念じます。
この一念一念は観世音菩薩様と同じ命を自覚した心から起こった一念ですから、
一心に誓願を守り、生きる場を離れることはありません。
(京都・喜春禅庵 玄樹和尚の独断的解釈です。2012/09/21)

vol.7へ続く
(いつも独断的に過ぎて、今回、少し脱線しました……)
by 「般若心経」のお話し 2012/9/24(月) ブログ掲載