☆本来無一物

 

“坐禅と般若心経の集い”法話 vol.10

「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」
―― 舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄らかならず、増えず減らず ――

さて前回は、観自在菩薩が〝五蘊の空〟なることを徹見したところでした。
いざ心の真諦(しんたい)に目覚めてみると、宇宙の森羅万象は「空」の姿を呈している。
身心の存在もそのままにそうだった……。

ありとあらゆるものが生命(いのち)の輝きに充ち満ちていて、そこには余計なものは何ひとつない。刹那せつなにすべてが満たされてある。

私たちの存在を含め諸々の真理は、生まれるでもなく、滅するでもない。汚れることもなく綺麗になるのでもない。増えもせず減りもしない。
( 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄  不増不減 )

一休禅師は次のように歌います。
「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心なくとも 春は来にけり」『禅林世語集』

自然の事象は全体を発露して何物にも囚われることなく、循環するに抵抗はありません。
菩薩の悟りの智慧で「大円鏡智」と言われる智慧は、自然を余すことなくありのままに見る智慧とされます。
この智慧はすべての真実を鏡に映すように知るとも考えられています。

ただ、ここでの「大円」とは鏡の大小の比較や、心に何物をも映し出す清らかな鏡があるということではなく、偉大な智慧のたとえです。
何もないから、そのままに映るということです。

 

―― 本来無一物(ほんらいむいちもつ)――

この有名な語は、中国の故事で六祖恵能大師が誕生する機縁となった偈頌の一節です。
まだ出家前の恵能大師が五祖弘忍大師の元で、廬行者(ろあんじゃ)と呼ばれて米搗きをしていたとき、神秀上座の偈に対して示した以下のような偈頌です。

「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物 何処惹塵埃」
―― 菩提もと樹(じゅ)無し 明鏡また台にあらず 本来無一物 何れの處にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん ―― 『禅林句集』

(意訳)
心にありがたいお悟りの樹なんてないよ。清らかな鏡というのではない。もともとなんにもないのに、どこにゴミや埃が引っ掛かってくるんじゃろ。

 

因みに神秀上座の偈頌は以下の如くでした。

「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫使惹塵埃」
―― 身は是れ菩提樹 心は明鏡の台の如し 時時に勤めて払拭(ふっしき)せよ 塵埃(じんあい)を惹かしむることなかれ ―― 『禅林句集』

(意訳)
身体はありがたいお悟りの樹で、心は清らかな鏡のようだ。いつも手入れを怠らず、ゴミや埃で汚してしまうことがないように。

六祖恵能大師の法系を南宗禅といい、神秀禅師は北宗禅の祖となりました。
日本へは慧能大師の法系が大きい流れとなって臨済禅師や偉大な祖師方によって伝わっています。

(平成28年正月、小冊子『「あざやかに生きる」般若心経のおはなし vol.4』掲載)