☆あたかも蜃気楼のように

 

“坐禅と般若心経の集い”法話 vol.11

「是故空中無色 無受想行識」
―― この故に空のなかには、色もなく、受想行識もなし ――

一般的には「色」を物質的存在と解釈するのですが、まず、「色」は私たちの肉体のこと、とハッキリと押さえておきましょう。そのうえで諸法へと展開すると、万物の実相をありのままに観るでしょう。

さて観自在菩薩が五蘊皆空と見とどけられたのは、問題は自己に他ならない。ということでした。転じて、私たちの存在を含め諸々の真理は、生まれるでもなく、滅するでもない。汚れるのでもなく綺麗になるというのでもない。増えもせず減りもしない……、と。

 
「大円鏡智」と表現される境地は、鏡に映った真実が何の囚われもなく変化する智慧を示してくれます。
このような働きは五蘊そのもので、「受想行識」の情報を受け入れる「受」と、想いを整理する「想」。心が働きはじめる「行」に、総合的な認識判断をする「識」の作用です。
この反応はピンクの花は桜だとか、あの声はウグイスだなぁ、と感官の情報が、記憶や経験によって判断される普遍的なことで、特別なことではありません。

この五蘊は瞬間しゅんかん、すべてが円満に具わっていて、生命(いのち)は刹那せつなに新しく、常に新鮮な変化の流れです。まさに私たちは初めての体験を生きて、あざやかです。
生命や諸法はこのようで、存在は「空」の状態にあるのですが、自我意識が出ますと、何ら不自由でない円満な心に執着が生じ、自己の情念にからまって惑い、七情に振り回されて限りなく業を積むこととなるのです。
※ 七情とは、喜、怒、哀、楽、愛、悪(お)、欲をいう。『精選版 日本国語大辞典』

問題を成り立たせているのは自我意識そのものです。それがゆえに、知らず「苦」の連鎖に自縛して、「幸せを願いながら不幸となる……」とも言えます。
このような状況に落ち込まないように在りたいものです。

心身は色受想行識の変化の流れですから、常住不変の自己の存在はありません。
例えば、現今の刹那にキラキラと明滅する流れがあるだけ、とも表現できるでしょう。

 

仏教は我執と渇愛の執着を断つ実践で、長い葛藤の後に桃の花を見て悟った禅師や、竹に小石の当たる音で大悟した禅僧など、大事を成した修行者の消息が多く知られます。
その昔、和歌山の興国寺の無本覚心禅師(後の法灯国師)に参じた僧が自分の悟りの境界を、次のような歌で禅師に示しました。

―― 唱ふれば吾も仏もなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして ――

しかし禅師は「これでは駄目だ!」と肯ってくれません。そこで僧はしばらく禅師に参禅し、再び歌を呈して許されたというのです。その歌は以下の如くです。
―― 唱ふれば吾も仏もなかりけり、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏 ――

如何ですか……。この僧は、後に踊り念仏で大衆を布教して遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と尊称された、時宗の開祖、一遍上人であったとも伝えられます。

偉大な菩薩とも禅師とも崇拝されるお方は、「大死一番絶後に蘇る」という体験をへて、その生き様は鮮やかに清澄さを増していくことでしょう。

(平成28年正月、小冊子『「あざやかに生きる」般若心経のおはなし vol.4』掲載)