☆灯りの炎の連続のように

 

“坐禅と般若心経の集い”法話 vol.12

「無眼耳鼻舌身意 無色聲香味觸法 無眼界乃至無意識界」
―― 眼耳鼻舌身意も無く 色聲香味觸法も無く 眼界も無く乃至意識界も無し ――

前項は私たちの構成要素である五蘊の分析でした。ここではより詳しく仏教の認識作用が分類されます。
初めの眼耳鼻舌身意は感覚器官のことですが、仏教用語で「六根」と言います。対象を知る働きですから主観です。次の色聲香味觸法は、六根によって知られる六つの対象で「六境(六塵)」と言い、これは客観ということです。この六根と六境の二つを合わせて十二處とします。

一切の現象作用はこの主観と客観がお互い映し合って展開されるとしますが、このときに生ずる心作用を、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識として、これを「六識」と説明しています。この六識に先の六根と六境をまとめて十八界とするのです。

続く「眼界も無く、乃至、意識界も無く」では、十八界の項目すべてを並べず、乃至(ないし)と項目を略しています。そして、そのすべてが「無い」と結ぶのです。

なんとも煩雑ですが、五蘊からはじまり、六根、十二處、十八界と説き起こして、私たちの心身の働きを詳しく分類したそのうえでの全否定です。
観自在菩薩は、そのいずれもが「無」である。「空」なのだよ……。と懇切を労してくれるのです。
因みに、「空」と「無」は同義です。

ところで六根に注目すると、「六根清淨、ろっこんしょうじょう」と唱えながら、山野を行く修験道の修行が現在も行われています。この修行は私たちの六根(眼耳鼻舌身意)から生ずる欲望や迷いを立ち切って、心身を清らかに保つ修行でしょう。

現在では、世界遺産に登録された奈良県南部の霊山、大峰山(おおみねさん)での「西の覗き」という修行がよく知られています。その日本三大荒行とされる行とは、命綱を他人に託して、眼も眩む断崖絶壁から、今までの罪業を懺悔する捨身行とされます。昔は三途の川の渡し賃六文を口にくわえて行をしたとも伝えられます。

これらを禅的に解釈しますと、死ぬこと! と、まず分別心を裁断するのです。
この「到り得る」体験を励ます語句は祖師の語録に散見限り無しで、『碧巌録』四十一則には以下のようにあります。

「須らく是れ大死一番して、(略)直に須らく懸崖に手を撒して、自ら肯うて承当すべし。絶後に再び甦らば、君を欺くことを得ず」

己をかえりみず断崖絶壁でパッと手を放して、恐れず谷底へ己を放下する覚悟が必要なのだ。
そのうえで直に甦る体験をするなら、「自ら肯うて承当する……」確信を我がものとするだろう。
ということです。一度、六根と六境を忘れる経験をするなら、「般若の智慧」が我がものとなる。と観自在菩薩が親切をお示しです。

(平成28年正月、小冊子『「あざやかに生きる」般若心経のおはなし vol.4』掲載)